「関与するとあとで色々と面倒だし、見て見ぬふりをしよう」。この思考の裏にある「不作為バイアス」について解説。
また、不作為バイアスがもたらす影響についても解説。ぜひ、最後までご覧ください。
不作為バイアスとは?
悪い結果は同じでも何かをした失敗より、何もしなかった失敗を「まだ良い」と考える心理的傾向。
これは相手の行動にも当てはまります。
- 合理的な判断ができない(しなかった方が道徳に責められない)
- 差別を生み出す(行動した人を過剰に責め立てる)
- 反省が行われにくい(行動しなかった自分は正しいと安堵する)
主なデメリットは上記。
デメリットを一言でまとめれば、全然問題解決が進まない点にあります。
不作為バイアスの影響(関連するバイアスなど)
主な影響は以下の4つ。
- 損をしたくない
- 後悔をしたくない
- 責任を軽くしたい
- 言い訳をしたい
順番に見ていきます。
ただ不作為バイアスは、複雑な事情が絡み合い、単一の説明はできないことを念頭におきましょう。
損をしたくない
人には、何かをした結果として受け取る利益より、失う損失を重視する傾向があります。
そして、何かをした結果、取り返しがつかなくなることを避ける。
マイナスがあるかもしれないなら、0(安楽の状態)のままでいいとなります。
また、自分がすでに保有しているものに大きな価値を見出す。
言い換えると、手放すことに大きな痛みを感じる「保有効果」と呼ばれるバイアスもあります。
上記の3つの心理的傾向が「するよりしない」という選択を促します。
後悔をしたくない
先に人は、何かをした結果として受け取る利益より、失う損失を重視する傾向に触れました。
これは、「後悔をしたくない」という感情にもつながります。もちろん、「しておけばよかった」という後悔もあります。
ただそのような見過ごされた感情より、「何かをして失う」方が嫌悪感は強まる。
言い換えれば、「なんであんなことをしてしまったのか」となる方が、強い後悔を引き起こします。
それは、単純に損失がより現実に迫ってくるからでしょう。実際にツケを払わなくてはならなくなります。
責任を軽くしたい
行動した結果で被害が出たら、当事者として責任が追及されます。
企業であれば、ある商品につけた機能が引き起こした被害は、当然製造業者に責任が負わされます。
ただ「機能をつけなかった被害」はどうでしょう。前の作為(被害が出てしまう)より不作為(被害が出てしまった)は、若干ニュアンスが変わります。
そして、「事態が予測できなかったわけがない」はどうしても主観の領域を出ません。
となると責任が本当にそこだけにあるかと、他の可能性が作為のときより活性化してしいます。
言い訳をしたい
言い訳は責任を軽くしたい、損失(被害)を避けたいことにも繋がります。
一言でいえば、「知らなかった(無知を主張)」と言えます。行動したら、知らないでは済まされません。
追及する側も、行動とそれに伴う被害の関係は証明できますが、「その人が本当は知っているだろう」ということを証明できない。
なぜなら、本当に知らない可能性は、どうしても排除できないからです。
とはいえ、それで責任を回避できるわけではありませんが、モヤモヤとした感情が付きまとうケースもあります。
作為が悪いのは当たり前?
そうならない場合は、一言でいえば、不作為(しないこと)の結果がわかっている場合。
赤ちゃんに対して何もしなければそのまま衰弱することは、保護者であれば誰でもわかる。
この場合は、不作為(何もしなかったこと)が罪に問われます。
作為、不作為関係なく何かしらの関与で被害が出たら、責任を取る。
それが不作為の場合は、立証が難しいだけです。不作為が「まだ良い」とはなりません。
感情と判断はしっかりと線引きしておきましょう。
【不作為バイアス】まとめ
トロッコ問題という思考実験があります。
レバーを切り替えて1人を轢く選択は、レバーを引かずに5人を犠牲にする選択より多い。
しかし、1人を線路に突き落として5人を助ける場合は、拒否する選択が多くなります。
1人を犠牲にする点は変わらないのに、なぜか。ここには、自分が関与する(作為)に対する人の不快感、嫌悪感が如実にあらわれています。
合理的に考えれば5人を助けるべきですが、とはいえ、ここには「人を突き落とせるか」という問題があります。
非合理でも、作為が決定的になるくらいなら、しない(不作為)という選択をする。
不作為バイアスは、どちらが一方的に悪いわけでもないという倫理的な問題があります。
そんな中で指針となるのは、自分の軸、信念ともいえるでしょう。
常日頃から「この場合自分は、〇〇というポジションをとる」ことを明確にし、きっちりと考えを整理しておく。
すると、合理的な判断もしくは「非合理ではあるが、自分の中でしっかりと根拠がある判断」が出来るでしょう。
では、また。