「もう使っていないのに、捨てられない」「売れる値段でも、なぜか手放したくない」。そういう感覚に覚えはないでしょうか。理性で考えれば、手放したほうがいい。それでも、なぜか踏み切れない。
この感覚には名前があります。保有効果と呼ばれる、人間に広く共通する心理的な仕組みです。本記事では、保有効果の仕組みと、その影響が日常やビジネスにどのように現れるかを、行動経済学の観点から解説します。
保有効果とは
保有効果とは、自分が所有しているものに対し、客観的な価値よりも高い価値を感じてしまう心理的傾向のこと。同じモノでも、「持っている人」と「持っていない人」では、そのモノに対して感じる価値が異なります。
持っている側は、持っていない側が思う以上の価格でなければ手放したくないと感じる。この非対称性が保有効果です。
行動経済学の文脈で広く知られるようになったのは、経済学者リチャード・セイラーがこの概念を提唱してからです。セイラーは2017年にノーベル経済学賞を受賞し、保有効果はその研究の中核をなす概念のひとつです。
マグカップの実験
保有効果を実験で示した研究として広く知られているのが、カーネマン・クネッチ・セイラーによる1990年の研究です(Kahneman, Knetsch & Thaler, 1990)。
実験ではまず、参加者の半数にランダムでマグカップを配布。その後、マグカップを持っている参加者(売り手)には「いくらなら手放してもよいか」を、持っていない参加者(買い手)には「いくらなら買ってもよいか」を尋ねた。
結果、売り手の提示価格は買い手の提示価格のおよそ2倍以上になりました。合理的な経済学の理論では、売買の成立数は全体の半数程度になるはずが、実際の取引量はその予測を大きく下回りました。
ランダムに渡されたマグカップでさえ、受け取った瞬間から「手放すのは損」という感覚が生まれる。所有という事実が、価値の評価そのものを変えてしまいます。
なぜ所有するだけで価値が変わるか
保有効果が生じる背景として、最も有力な説明が「損失回避性」です。人は同じ金額であっても、「得ること」より「失うこと」に強く反応します。プロスペクト理論の研究によれば、損失の痛みは同額の利益の喜びに対し、最低でも2倍に達するとされています。
モノを手放すという行為は、脳にとって「損失」として処理されます。一方、同じモノを手に入れる行為は「利益」として処理される。この非対称性が、売り手と買い手の評価額にずれを生むのではないかと考えられています。
カーネマンの著書『ファスト&スロー』では、手放すことへの嫌悪感は意識的な判断より先に、直感的・自動的に作動すると述べられています。
使いたいモノを売ろうとするとき、脳の嫌悪感や苦痛に関わる領域が活性化するということは、保有効果が単なる思い込みではなく、生理的な反応とも結びついていることを示しているでしょう。
保有効果が消える条件
保有効果はいつでも発生するわけではありません。カーネマンらの研究では、取引を目的として保有しているモノについては、保有効果が現れにくいことも確認されています。
熟練したトレーダーが「手放すか、持ち続けるか」ではなく「AとBのどちらを持つ方が良いか」という問いで考える場合、損失の痛みが発生しにくくなるというものです。
つまり、「所有したことで愛着が生まれているか」より「交換価値として見ているか」という心理的な構えが、保有効果の発生に影響しているのではないでしょうか。
日常に現れる保有効果
保有効果は、日常の様々な場面で顔を出します。
断捨離が進まない理由
長らく使っていないものでも、手放す段になると「やっぱり必要かもしれない」という感覚が生まれる。客観的には不要でも、所有しているという事実が価値を底上げしてしまいます。
フリマアプリで売れない価格をつける
出品価格を決めるとき、「これだけの値段でないと嫌」と感じることがあります。しかし、メルカリを買い手として見ているときは「高くないか」と思うことが多い。買い手の感覚と売り手の感覚がずれやすいのは、保有効果が働いているからでもある。
投資で損切りできない
購入した株の価格が下がっても売れずにそのままになる。これも保有効果と損失回避性が絡み合った現象として知られています。売るという行為が「損失の確定」と感じられ、保有し続けることで損失を先送りしてしまう。
アイデアへの執着
保有効果は、形のないものにも働きます。自分が考え出したアイデアや方針に対しても同じ心理が作用し、他人から別の案を提示されても「自分のほうがいい」と感じやすくなることがある。
ビジネスにおける保有効果の応用
保有効果は、マーケティングや製品設計にも広く応用されています。無料トライアルや試乗・試着の機会を設けることで、消費者に一時的な「所有体験」を与える手法がこれにあたる。
使ってみて手放すことへの抵抗感が生まれれば、購買につながりやすくなる。定額制サービスの解約率が低い理由のひとつも、解約という「手放す行為」が損失として感じられることと無関係ではないでしょう。
こうした設計が意図的に行われているとしたら、保有効果を知っているかどうかは、消費者として、サービスを続けるか、やめるかの判断を守るための視点になるかもしれません。
まとめ
保有効果とは、所有しているものに対して客観的な価値以上の価値を感じてしまう心理のこと。カーネマンらのマグカップ実験によって実証されたこの現象は、損失回避性という人間の根本的な傾向と深く結びついています。
「手放せない」「なぜか売れる値段をつけられない」という感覚の背景に、この心理が働いていることがある。保有効果を知ることで、自分の判断が「合理的な評価」か「所有による錯覚」かを、少し落ち着いて見直せるのではないでしょうか。
参照文献
Kahneman, D., Knetsch, J. L., & Thaler, R. H. (1990). Experimental tests of the endowment effect and the Coase theorem. *Journal of Political Economy, 98*(6), 1325–1348. https://doi.org/10.1086/261737